【なごちゃんの温故知新?】第3回 ファミコン開発、中止、そしてプロデューサーへ 

僕が入社当時のBPSは、新横浜の近くにある内路(うつろ)という場所にありました。ブラックオニキスの中にあるウツロの街という名称はここからきてたんですね。 
で、業績も順調だったのか、1986年に内路からすぐ近くの妙蓮寺へ引っ越すことに。 

当時、普通に引っ越しは社員全員でやりました。大所帯ではなかったし(当時20人いなかったくらい)、8tトラックレンタルして荷物を全部パッキング、そしてトラックへの積み込みと全部自分たちで行いました。 
妙蓮寺の新オフィスでは、荷物をトラックからおろし、すべて梱包をあけ、ラック組み立てやらパソコン設置、接続などなど、ヘンク社長含めて全員で取り掛かっていた、はず、ですが、、、 

なんと若干2名、最初のほうに組み立てたところにあるPCを二人でいじってて、引っ越し作業には全く参加せず、というのを目撃した瞬間、怒りにまかせて押していた台車を廊下で、ちきしょー、とかいいながら前に押し投げたら、あれよあれよという間に台車がカーブして廊下わきのガラス窓に激突、そして無事ガラスが見事に割れて地上に落下。。。 

いやー、短気は損気ということを身をもって体験した一幕で、ガラス窓を破壊した瞬間は今でも覚えてますが、悪いことはすぐに忘れるたちなのか、その後どう対処したか全く記憶にないですw 
ちなみに、ラック組み立て、社内で一番早かったです、はい。 

さて、87年11月に、PC-8801用ゲーム開発が終わったタイミングで次はファミコンゲーム開発を担当することに。 

前後しますが、1986年、イギリスでAIを研究しているというアランスカーフが来日、BPSに滞在し、AI研究の一環で開発していた囲碁アルゴリズムをファミコン及びPC-8801向けに開発するということで、僕が別途進めていたプロジェクトを一時中断し、そちらの囲碁プロジェクトへ参加しました。 

アラン氏の囲碁思考ルーチンにボブというオタクプログラマがFC版のUI部分、そして僕が、6502→Z80コンバーター及びPC-8801版担当、という感じでした。 
PC-8801のプログラムは、ほとんどの部分をFC版のソースコードをZ80コンバーターで言語変換し、いわゆるBIOSやグラフィック表示回りをアセンブラで作る感じで、ものすごく早く開発した記憶があります。 
3か月くらいだったかな。 

FC版 囲碁 九路盤対局 プレイ画面 

で、そのプロジェクトが終わり、アランスカーフ氏がイギリスに帰るという時に、アラン氏からイギリスにきて一緒にAI研究プロジェクトをやらないか、と誘われ、ヘンク社長も行って勉強して帰ってくればと言ってはくれたのですが、、、何しろハワイ流しのトラウマがあったのかw、丁重にお断りさせていただきました。 

ハワイに続き、あの時イギリスに行っていたらどんな人生になっていたやら。 
歴史ifって面白いですよね。 

無事イギリス島流しを辞退しw、中断していたプロジェクトに復帰、そして87年11月にこちらも無事発売にこぎつけ、いよいよ待望のファミコン開発です。 

PC-8801版 M.U.L.E. タイトル画面

当時ゼビウスグラディウスなど、シューティングゲームに触発されて、個人的な趣味で帰宅後や土日にPC-8801でシューティングゲームを作ってました。 
会社では仕事でプログラミングし、家でもプログラミングと、好きが仕事になっていた典型パターンだったなと思います。 

で、シューティングゲームで敵の登場、配置、飛行パターン、攻撃など、今でいうスクリプトで記述してそれを画面上にリアルタイムで動かすということをやっていたのですが、それがとても面白くて、いろいろな攻撃パターンを作って自宅で遊んでたことを覚えています。 

で、ファミコンでオフィシャルにシューティングゲームが作れることとなり、8か月で作り上げるスケジュールを組み、社内にいた同い年のやつに企画担当として、敵やステージなど含めたゲーム仕様全般を任せて開発をすることになりました。 

が、 

なんと、その仕様担当するはずだったやつが、上司とけんかして会社を辞めてしまいw、さすがにこのころのゲームはゲーム性がしっかりしてきた時代でもあり、僕がプログラマと兼務してゲーム仕様策定するのは、才能がないと自覚していたので、やむなく外部のフリーの企画屋さんとかあたったのですが、しっくりアサインできそうな人がいなくて。 
そうこうしている間に当時の開発部長(開発部門の責任者、僕の上司でもありました)も会社を辞めることとなり。 

で、誰が開発部の責任者になるのかなと思っていたら、なぜか僕に白羽の矢がw 
プロジェクトも仕様担当がいなくて止まっていたこともあり、僕が責任者兼BPSプロジェクトのプロデューサーをやることになりました。 
その時僕は、プロデューサーやりながらでも自分のゲームのプログラマもやりたいとか偉そうにほざいたことを覚えていますw。 

今はプロジェクトマネジメントツールはいろいろあり、規模が大きなプロジェクトでもオンラインですべて繋がり、効率よくできるような工夫もされていますが、当時はLOTUS1-2-3という、Excelのようなスプレッドシートでスケジュール管理し、報告書は毎週「一太郎」というワープロソフトで書いてました。 

22歳の誕生日まであと数か月というころ、いよいよあのテトリスをヘンク社長が発掘してきて、BPSでテトリス開発をスタートすることに。 
これはヘンク社長の人生最大のターニングポイントだったでしょうし、僕もプログラマとして最後に作ったゲームとなります。 

ということで次回、テトリスプロジェクト始動です。裁判事件に関しては書けないかなぁ。ぎりぎり、触れられるエピソードがあればという感じで。。。