【なごちゃんの温故知新?】第4回 閑話休題、桜前線、そして温故知新
ブログタイトルの温故知新とは全く関係ないですが、桜満開報告です。
さて、温故知新。
前回のブログで、ファミコン開発中止、開発部門の責任者・プロデューサーになった話をしましたが、何しろマネージメントの勉強もせずに責任者になったので、プロジェクトマネージメント、スタッフマネージメントなど、まぁよくも適当にやったもんだなと、今思うと汗顔の至りですw
当時動いていたプロジェクトは移植作品が多くありましたが、内部外部あわせて10ラインくらい動いていて、しかも順調なのは半分くらいで、ひどいプロジェクトは終わるきざしも見えないというw
で、1988年7月までに、ファミコンのスーパーブラックオニキスとか含め、何タイトルか世に出たのですが、その時にヘンク社長がTETRISを見つけてきて、BPSでPCと家庭用ゲーム機の権利を取得して開発することに。
TETRISに関しては裁判事件が有名でご存じの方も多いかと思います。1993年に角川書店から「GAME OVER」という書籍でも記述があり、先月AppleTVで配信が始まった映画「TETRIS」でもとりあげられるかもですね。こちらはまだ見てないのでわかりませんが。
当時E3が始まる前は、ゲーム業界はCESに参加していて、毎年1月はラスベガス、6月はシカゴで開催され、6月のシカゴ開催の時に、ヘンク社長と一緒に出張へ行った際、Mirror soft社、Andromeda社とMTGをしました。
その時はどういった目的など分からず、ただ一緒にMTGに参加して、ヘンク社長の横でだまって話を聞いてただけですがw、どうやらTETRISの権利内容について話してるようで。
まぁ僕には関係ないやと思いながら、ぼけーっとMTGに参加したことを覚えてます。
それがその後壮大な裁判に発展するとは思いもよらずでしたね。
さて、1988年7月から正式にTETRISの開発をスタートするのですが、その時に決まったことが、PC向けは当時販売されていた10機種とファミコンをあわせて合計11機種を同時に発売するということです。
ファミコン版だけロムということもあって、ファミコン版をまずは優先して開発をスタートし、その後順次PC版の開発を五月雨でスタートさせました。
まぁ当時でもTETRISならプログラムは簡単なのでできるだろうと思い、それに加え、PC-8801版なら開発経験もあったので、自分がプログラマとして、プロデューサーを兼ねながらプログラムしようと決めて開発開始。
メインプログラムはC言語で全機種共通とし、グラフィック、BIOS周りを各機種の担当プログラマがAPIにあわせて作るという方法でやりましたが、まぁさすがにプログラマ兼務は厳しかったです、はい、なめてましたw
ただ自分で決めた手前、今更PC-8801版を他のプログラマに託すなどできず、デイタイムは開発部のマネジメントとタイトルのプロデュース、夜と土日にプログラム作業という2足のわらじで開発することに。
ファミコン版はロムの為、発売予定日の3か月前にはマスターアップしないとロムの製造が間に合わないので、8月末を完成予定としてましたが、少し遅れたため任天堂さんになんとかロムの製造スケジュールを調整してもらい、ぎりぎり11月18日の発売日に間に合いました。
他のPC版も、僕が担当したPC-8801版含め9機種は11月18日に発売できたのですが、1機種だけ遅れてその2週間後に発売。
なんだかそれがすごく悔しくて、全機種同時発売達成できなかったと、発売翌月に当時の専務が慰労で飲みに連れて行ってくれた際に、とても悔しかったと言いながら男泣きした記憶がありますw
さて、そんな苦労をして発売したTETRISですが、まぁこれが受注が集まらないw.
ゲームは本当に面白いのでさぞかし売れるだろうと、僕もヘンク社長も思っていたのですが、見た目やゲーム説明だけでは問屋さんに伝わらず、ファミコン版の初回注文で最初にきた数字が4万本。。。。
数字見てフリーズ。愕然。
で、再度いろいろな方法で説明やらとある方に問屋さんにプッシュしていただいたりで、なんとか倍の8万本に。
それでもこの程度かとやたら残念がったものですが、地道に秋葉原でゲーム大会やったりなどして、やがて面白さが口コミで広まり、追加生産、追加生産を繰り返し、ファミコン版はトータル180万本、PC版は全機種あわせて20万本くらい売れ、大ヒット商品となりました。
1989年の夏だったか冬だったか忘れましたが、初めて帯付きでボーナスをもらいおおいに喜びましたが、その年のBPSの税引き前利益が8億円くらいあったので、後日チーム全員もう少しもらってもよかったなと思いなおしたりしましたw
さて、次回はちょっと天狗になってトラブル続出。