【なごちゃんの温故知新?】第5回 天狗でトラブル続出

1988年に販売したTETRISが、1989年に入ってから大ヒット商品となったわけですが、TETRIS以外のゲーム開発も並行して10タイトル程度は常に動いていました。

1タイトルあたりの開発規模が小さかったこともあり、今ではとても考えられないのですが、一人のプロデューサーが10タイトル程度みるといっても、そこまで珍しいという感じではなかった時代です。

ですが、、、目が行き届かなくなるプロジェクトもでてくるわけでして。
覚えているだけでもかなりの失敗がありました。


まずは、外注とんずら事件。


当時BPSだけじゃなくて他社でも、外部の個人さんに開発を外注することがあったと思いますが、契約社員や派遣社員などと違い、成果物の納品をもって対価を支払う契約を個人と締結するスキームです。

TETRISのPC版や他のゲームもいろいろな個人さんに外注をしていたので脇が甘かったということにつきるのですが、初めての外注さんでもほぼ一度の顔合わせで開発業務の打ち合わせに進み、その打ち合わせで大丈夫そうと判断したら、プロジェクトベースに更に細かく打ち合わせを行い、その後は特に調査することもなく外注していました。

そのとんずらされた時の外注は、開発機材を買い替えたいという話をうけたので、契約時にいくらか支払いをしてあげたんですね。
そしたら、あろうことか一切連絡がとれなくなり、契約時に聞いていた住所にかけつけるも、アパートはもぬけの殻。大家さんに聞いたら少し前に出て行ったとのことで行先は不明。

許せんと思い、とりあえず警察にと思ったのですが、専務が、数十万円のために探すのは手間だからもう諦めようとのこと。

コスパは確かにその通りだけど、心情的に本当に許せんかったです。完全な計画的詐欺ですからね。
でもこの時に初めて与信管理ということを学び、与信管理しなかったことを後悔しました。。。

とか、まだまだあるので紐解いていくとだんだん気持ちがブルーになってくるのですがw、
他にもBPSのライフワークになりつつあったMOONSTONEがとうとう開発中止とか、すでに雑誌に広告を打っていたゲームタイトルが、バグが全くとれず開発中止になったとか、開発期間が短かったことを理由に独断で開発を進めて某有名プロデューサーを怒らせた、などなど、記憶を呼び起こすといろいろ問題だらけだったなと汗顔の至りです。

某有名プロデューサーを怒らせてしまった事件はなかなか厳しい経験ではありましたが、外部の方との仕事の進め方や、いわゆるプロデューサーとしてのタイトルプロデュースを経験することもできました。

この時のゲームの開発期間が本当に短くて、外部の方に都度確認・監修してもらっているとスケジュールが到底間に合わなそうなので、スケジュールの見直しをしたいと当時のヘンク社長に話したら、細かく確認しなくていいからとにかく進めてと言われ、またそれを僕が勝手に拡大解釈してしまい、開発中は関係各所にろくに進捗報告や確認をせず、最後のデバッグ段階まで独断で進め、最後に外部のプロデューサーに確認した際に逆鱗に触れ、プロデューサーとしてそんな仕事の進め方があるか!と、しこたま叱責されたことを今でも鮮明に覚えています。

進め方が間違っていたと慌てたところでもうプロジェクトは巻き戻せず、とにかく一緒にデバッグというか最終チェックだけでも!とお願いし、開発完了した際にあらためてお詫びに伺いました。
TETRISの成功にあぐらをかいて、どこかで慢心していたのだと思います。あらためてプロデューサーは大変だということを思い知らされた事件でした。

その後、BPS社内開発で評判の良かったTETRIS武闘外伝やFRONTIER UNIVERSE PC版など、名作を世に出すこともできたのですが、あきらかにプロデューサーとして未熟だったなと思います。。。

さて、その後1993年にBPSの社内取締役からレッドカンパニー(現レッド・エンタテインメント)を紹介され、共同でゲーム開発をすることになったのですが、そのプロジェクトが立ち上がろうか、というタイミングで、ジョブローテーションという施策の一環で、各部の責任者をローテーションするということで、開発の責任者だった僕は全く未経験の営業部の責任者をすることに。。。

その時の縁で3年後にレッドカンパニーに転職することになったのですが、まぁ未経験の営業は大変でした。

ということで、次回、営業部門で四苦八苦。