【なごちゃんの温故知新?】第10回 そしてレッドへ <後編>
今月は「東亰大戦」の設定参考にする為の、取材旅行へ広井さんと行きました。
「東亰大戦」は架空の戦後日本が舞台なので、古い写真や記録ドキュメントだけではなく、実際に現存する古き良き建物や街並み、神社・仏閣なども参考にします。
制作資料などは近日中にCBT予定のSNS、「SuperClub」にて、順次公開していこうと思っています。
さて、前回のコラムの続きですが、10年以上勤めたBPSを1996年に退職。
そしてレッドカンパニー(以下、レッド)へ転職することになったのですが、前からやりたかった、1か月間でいくらパチスロで稼げるのか!? チャレンジのために、BPSは3月末に辞めたのですが、レッドの入社日は5月1日にしてもらい、4月いっぱいの1か月間、パチプロ生活実践しました。
実はパチンコ、パチスロ歴は長くて、初めてパチンコ屋へ行ったのが小学校3年生の時。父親に連れて行ってもらい、普通にパチンコ打って、出玉をレコードとか景品に交換したりしましたね。
ある時、館内放送で「この子の親はどちらですか!」と僕の父親の呼び出しが。まぁ大人に混じって普通に小学生が一人でパチンコを打って、しかも出していましたからね、パチンコ屋さんもさすがに注意せざるを得なかったようでw
高校生の時には大きな声では言えませんが汗、本格的にパチンコにはまりました。デジパチと呼ばれるセブン機が初めて登場したのもその頃でした。
パチンコメーカー三共(SANKYO)の初代フィーバーの登場が1980年。1982年には、パニック、アイドルセブンといったセブン機も登場し、まぁそのセブン機にはまりましたね。
当時はパチンコホールにホルコン(ホールコンピューターのこと)などなくて、釘調整も甘く、釘さえ読めれば勝つのが難しくなかった良い時代です。羽根物機は釘読みも難しかったのですが、セブン機は、デジタルが回るチャッカー(パチンコ玉が入るところ)さえ開いていればよくデジタルが回るので、1,000円あたりの回転数が増えて期待値も上がる、という理論が通用しました。これがのちに提唱されたボーダー理論というやつです。
そんなパチンコ歴ですが、その後徐々に世の中に出始めたパチスロに興味が移り、パチンコと並行してパチスロをよく打つようになったのが1993年にパチスロメーカー山佐が販売したニューパルサー登場の頃。
この頃、ちょうどBPSで開発から営業にうつり、毎月営業で出張に行く度に、各地のパチンコ屋さんによく行きましたw
特に札幌、岡山、広島、名古屋への出張は泊まりが多く、且つ、それほど営業スケジュールがタイトでなかったので、毎回パチンコ屋に行っていました。ほんと、これも大きな声で言えないですがw
もちろん、出張のない平日の夜や土日にも良く行ったものです。
で、当時はまぁまぁ勝てたw
詳細は割愛しますが(いつか必勝法解説はしたいw)、パチンコではボーダー理論、パチスロでは設定判別、リプレイ外しで、月次収支がマイナスになることはほとんどなく、サラリーマンしながら年間50~100万円くらいは勝てました。
本業じゃなくてもこれだけ勝てたので、毎日パチンコ屋に行ったら結構勝てるんじゃないかという考えがずっと頭のどこかにあったんですよね。
その思いが、転職を機会におとずれたのですから、退職後の1996年4月1日をスタートとして、まぁそれはそれは張り切って朝からパチンコ屋に行きました。
そして、4月30日までの間、パチンコ出勤をお休みしたのは2日だけ、つまり28日稼働したのですが、4月いっぱいで50万円勝ちました!w
さすがにそれだけ勝てたので、一瞬、パチンコ・パチスロでメシ食えるなー、と思ったものですがw、そこは思い留まり、予定通り5月1日からレッドカンパニーでお仕事開始です。
次回、「新聞読んで、キャラクターとの出会い」